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【誰も知らなかったココ・シャネル】アドルフ・ヒトラーのインタビュー【シャネルはナチスのスパイだった】

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今から73年前の8月25日、パリの街中に喜びがあふれました。1944年8月25日は、パリがナチスの占領から解放された日。それ以来、8月25日はパリジャンにとって忘れられない日となりました。

パリ解放の翌日
、シャンゼリゼ通りで解放を祝って盛大なパレードが行われて以来、パリでは毎年8月25日にセレモニーが開催されています。

8月25日のパリ解放セレモニーについて知りたい方は「市庁舎前で聴いたドラノエ市長の演説とパリ解放のセレモニー」を読んでくださいね。

本記事前半では、ル・モンド・ディプロマティック仏語版8月号から《アドルフ・ヒトラーのインタビュー》を紹介します。

記事後半では、ナチス・ドイツ占領下のパリの文化・芸術事情、『芸術コラボラシオン』と呼ばれる対独協力について解説。

記事の最後に、ドイツのスパイとして活動したファッションデザイナー、ココ・シャネルの知られざる過去についてお届けします。

【誰も知らなかったココ・シャネル】アドルフ・ヒトラーのインタビュー

アドルフ・ヒトラーのインタビュー

出典:Double portrait of Hitler, Panagis Antypas,2010,Greece

メディアには歴史がある。常に強勢に立ち向かう心構えのある偉大な記者は、重要な場所にいるものだ。しかし多くの場合、特に1930年代をみるとそれほどロマンチックではない。

アドルフ・ヒトラーが、戦前に何度か、フランスの特別使節によるインタビューを受けた際の条件が、特定のマスコミたちの隷属度合いを明らかにしている。

ヒトラーは、通告があるまでフランスのジャーナリストが出席する場でのインタビューを受けたがらなかった。これは、ドイツに対するフランスの立場を示している。1932年3月、ナチス指導者の秘書が弁護士に伝えたこの不受理が、覆されることはなかった。

アドルフ・ヒトラーが、1933年1月30日に政権に就いて、フランスのプレスの除外が緩和されても、ドイツ首相のフランスに対する敵意が直ちに、あるいは完全になくなった訳ではない。しかし、インタビューを拒否された記者たちは強靭で、時に非常に粘り強かった。

こうして、ジャーナリストのポール・エルフォールは、1933年と1935年の2回にわたり日刊紙『 L’Intransigean』で、ヒトラーのインタビュー記事を書こうと試みたが無駄だった。1937年、彼女は再びドイツ大使館へ手紙を書いた。

「私は、はっきりと申し上げます。私が申し込んだインタビューは、執筆後、首相に提出して承諾を得た上で、速やかに公開されるでしょう。質問は首相が望む内容であり、政策に関することだけを記事にしたいと思っています。私は、若いイタリア国家同様に、新たなるドイツに大きなシンパシーを感じていますから、あなたは私を理解ある外国人だと思うことでしょう。ちなみに、私は生まれながらの反ユダヤ主義者で、今まで人種差別に対して好意的な記事しか書いたことがありません。 」

しかし、これでも十分ではなかった。エルフォールは最後にもう一度、大使館の広報担当者に懇願した。「エチオピアのイタリア兵たちが私のことを南部軍のマスコットと呼ぶのは、私が幸せを運んでくると知っているからです!」しかし、彼女がヒトラーに近づくことはできなかった。彼にインタビューをするためには、お世辞を言うだけでは不十分だった。

フランス人でインタビューに成功したのは、注意深く選ばれたごく少数のジャーナリストだけだった。そのうちの一人、フェルナン・ド・ブリノンは、1933年にナチスの友人、ヨアヒム・フォン・リッベントロップから紹介を受けた。

ドミニク・パンソル 
ルモンドディプロマティック仏語版から抜粋して翻訳

文中に登場するナチスの友人、ヨアヒム・フォン・リッベントロップとは、ヒトラー内閣の外務大臣を務めた人物。彼は、後のニュルンベルク裁判で死刑になっています。

ヒトラーがフランスではじめて応じたインタビューとは

ヒトラーがはじめてフランスで応じたインタビュー

ヒトラーにインタビューすることを許されたジャーナリスト、フェルナン・ド・ブリノン(Fernand de Brinon) は、ブリノン伯爵の称号をもつ貴族階級の元弁護士で、第二次世界大戦中にフランスとドイツのコラボ(collabo)においてドイツのスパイとして活躍。彼もまた1947年に処刑されました。

日刊紙『マタン』(Matin )に寄稿していたフェルナン・ド・ブリノン は、
1933年11 月22日のコラムにヒトラーのインタビューを掲載しました。

ドイツの首相ヒトラーが、フランスのジャーナリストのインタビューに応じたのはこの時が初めて

インタビューは1932年、ブリノン侯爵と仲の良かったリッベントロップのはからいで、共通の友人との会議中に実現しました。つまり、当時のヒトラーにインタビューすることを許されたのは、フランス人であってもナチスと親しい人間だったのです。

今の政治やメディアにも、似たようなところがあるのではないでしょうか。

【 芸術コラボラシオン】対独協力


ナチス占領下でのパリ芸術界の男女 (映画監督サシャ・ギトリや女優アルレッティ) は、占領国ドイツとの誠心誠意の関係を維持したために、ナチスへの協力姿勢を非難されました。実際に、多くの芸術家たち (レイ・ベンチュラ、ジャン = ピエール・オーモン、ジャン・ギャバン) が当時、ナチスを逃れて移住しましたが、パリでドイツに協力しながら自分たちの職業を営み続けた映画監督や女優、文学者も多くいました。

アルレッティ、ミレイユ ・ バリン、コリンヌ・リュシェールら女優たちは、ドイツ人と並んで定期的に登場し、映画館の収入は1938年から1943年の5年間で倍増、220本の長編フィクション映画が撮られました。同期間の劇場収入は三倍になり、キャバレーは1940年、ナチス・ドイツによるフランス侵攻が始まるとすぐに営業を再開しています。対独協力で非難された女優アルレッティの皮肉は特に有名で、「私の心はいつもフランスにある、でもcul(お尻)は国際的よ」。と言ったのだそうです。

ヒトラーのフランスでの計画は、ヨーロッパの大国としてのフランスの地位を弱めて、フランスを二級国家に引き下げること。フランスでは特定の業界のマイナーな分野、特にブドウ栽培、ファッション、ラグジュアリー、その他あまり重要でない産業を発展させようという考えでした。フランスはナチス・ドイツの支配下におかれて、ヨーロッパの「菜園と遊園地」の役割を与えられたわけです。

軍事、政治、経済におけるドイツの力が全方面で優位になるように、ナチスはパリを、お気軽な享楽 と大衆娯楽の『県』に仕立てあげて、特定の芸術家たちの特定の文化施設 (劇場やオペラ座)を維持し、退廃的とみなされた芸術を弾圧しました。占領下のパリには、ドイツ人専用の遊郭が13軒もあり、ドイツ当局の社交の場になっていたと言います。

ある歴史家によれば、ナチス・ドイツの政策は、フランスから文化的主導権を奪い、フランスをヨーロッパの農業地帯にすることを目的としていました。また別の歴史家によれば逆に、ドイツ当局は偉大な自由主義を示して、1930年代の文化バブルを助長し、「芸術、映画、劇場、出版業界は、いわゆる黄金時代を経験した」と言います。

ココシャネルとヒトラーの写真
ヒトラーと握手をするココ・シャネル


こうして、ナチスに占領されたフランスで、まったくの無傷でいられたのがパリのオートクチュール産業でした。ランバンやニナ・リッチなど多くのメゾンがドイツ軍の顧客相手に営業。ココ・シャネルはブティックを閉店して、ドイツ軍が没収したリッツ・ホテルで優雅に暮らし、ドイツ軍のパーティーに出席し、ドイツ軍への支持を公言します。

【 誰も知らなかったココ・シャネル 大戦中の出会いと「大恋愛」】シャネルとナチス

【 誰も知らなかったココ・シャネル 大戦中の出会いと「大恋愛」】シャネルとナチス・ドイツ
左からアーサー”ボーイ”カペル、レオン・ド・ラボルド、シャネル 1908年

映画になったココ・シャネルの生涯

シャネルといえば誰もが知る高級ファッションブランドで、ココ・シャネルの生涯はたびたび映画のテーマにもなり、日本でもたくさんの伝記や小説が出版されています。

私もいつだったか、オドレイ・トトゥ主演の映画を見たことがあり (映画自体はつまらなかったのですが)、彼女(シャネル)を才能豊かで、とても興味深い人生を送った女性だと思っていました。特に、『自分で稼ぎ、自由に愛し、男の指図を受けずに自分が望むままに生きた女性』として以前から尊敬していました。

» ココ・シャネルの伝記映画【ココ・アヴァン・シャネル】について書いた記事はこちらです

ところが、フランスでこの映画が公開されてから三年後、シャネルがナチスのスパイだったことが分かりました。

シャネルは、ナチス・ドイツの情報機関から「F-7124」「ウェストミンスター(Westminster)」というコードネームを与えられて正式にスパイとして活動していたのです。

誰も知らなかったココ・シャネル

誰も知らなかったココ・シャネル 大戦中の出会いと「大恋愛」ハル・ヴォーンからシャネルが生涯愛したアーサー・”ボーイ”・カペルとシャネル 1908年


シャネルのスパイとしての正式な活動やプロフィールが明らかになったのは、彼女の死後約40年もたってからのことで、これは、フランス在住のアメリカ人ジャーナリストで元CIA エージェントだったHal Vaughan (ハル・ヴォーン)が、著書 Sleeping With the Enemy: Coco Chanel, Nazi Agent (敵と寝る:ナチスのエージェント、ココ・シャネル) の中で詳しく書いています。

日本では、同じくハル・ヴォーン著 誰も知らなかったココ・シャネル 大戦中の出会いと「大恋愛」と題して翻訳・出版されました。


フランス語学習者やフランス在住者、フランス語が分かる方なら、こちらから無料で冒頭部分を読むことができます。

→★(仏語) Dans le lit de l'ennemi Coco Chanel sous l'occupation / Hal Vaughan

おわりに

もし翼を持たずに生まれてきたのなら,

翼を生やすためにどんなことでもしなさい・・・。

Si vous etes nee sans ailes, 

ne faites rien pour les empecher de pousser…

ココ・シャネル

これは、ココ・シャネルが残した言葉です。

彼女の壮絶な人生を表しているようですね。

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